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シズコさんを読んで

佐野洋子さんの書かれた、「シズコさん」を読みました。
私にとって今はきれいな思い出ばかりになってしまった30年も前になくなった母、
それゆえか、私にはあまりお勧めできないと読んだ友達が心配してくれたけれど、
読まないほうがいいと言われると、天邪鬼なせいか、がぜん読みたくなってしまう性分です。

シズコさん (新潮文庫)

佐野 洋子 / 新潮社



いっきに読みました。
とても切なかったけれど、思いのほか淡々と読めました。
予備知識があったせいなのかとも思ったのですが、
たぶん母との思い出が大人になってから無いせいなのではないかとも思います。

母がなくなった時私は21歳でした。
21歳といえば、もう大人の仲間入りなのですが、当時の私は未熟で幼くて、
母にはあくまでも母であってくれと要求していたのだと思うし
母もまた私のそんな要求に自然に応えてくれていたのだと思います。
でも母とて生身の人間、今の私とたいして違わない年齢、
一家の家計を担って、ぎりぎりのところに立って休まず働いた、
倒れて四日でなくなってしまった日々の中では
どんなにか葛藤も迷いもあったろうなと思うと、
それをきいてあげられなかった、甘えるばかりだった自分の未熟を思います。

でも今思えば、甘えてばかりだったということは、甘えさせてもらっていたということなのです。
母を失った悲しみははかり知れなかったけれど、その時に私は思いました。
きっと人が一生かかって母親に甘える分を私は21年間で受けたのだと。
だから寂しくても悲しくても、その愛された記憶が私を守り強くしてくれたと思っています。
しかし子供が母親に甘えるということは、
あたりまえのことのようで、実はあたりまえに与えられることではないのかもしれません。
そのことを思うにつけ、シズコさんの娘である、洋子さんが不憫になるのです。
子供はいつだって、母親に認めてもらいたい、
あなたが大事よと振り向いてもらいたくて、健気に立ち居振舞う。
4歳の時につなごうと思って差し出した手を、
チッと舌打ちして振り払われてからというもの、母の手の感触がなかったという洋子さん。
それなのに、愛されないのは自分が悪いのだと子供は自分を責める。
大人になってからの洋子さんは、表面上はそんな母に邪険にあたりながらも
ほんとは母を愛せない自分を責めるのです。
それがシズコさんが呆けてから、母と娘の再生が起きる。

「母さん」と呼びかけるとびくっとする。そして焦点の定まらない目で、「誰?」と云う。
もう私がわかならないのか、「洋子よ、洋子」と大きな声で叫ぶと
いつもぼんやりしている黒目が、パァーと喜びに輝く様な気がした。
「まあ洋子なの」
妹が行っても同じだったかもしれない。
でも母は特別私だけに黒目を光らせるのかもしれないとどこかで私は思うのだった。


いくつになっても子供は「私だけ」の特別の母を恋うているのかもしれない。
一緒のベッドに入って、母のふとんをとんとんとしながら子守唄を歌う、
母さんも洋子さんのふとんをとんとんしながら歌う、
いつか洋子さんは母さんの白い髪の頭をなでていました。
この時に、何十年も閉じたままだった心の蓋がはずれ
いっきに氷がとけ、互いの赦しのときがおとずれる、
60代になった娘と80代になり呆けた母が、
幼い子供と若い母親のように抱きしめあうことができた。
子供は「ごめんね母さんごめんね」と謝る。
母は「私の方こそごめんなさい、あんたが悪いんじゃないのよ」
何十年も凍り付いていた心が一瞬で融ける瞬間。
もしシズコさんが呆けなかったら、この瞬間は訪れなかったかもしれない、
人生とはかくも皮肉で、かくも愛おしい、ほんとうに不思議なものだと思います。

私は年老いた母親を知りません。
だからなのか、このお話の場面でも私は娘よりも母親の視点になっています。
呆けてどんどん素に清らかになっていくシズコさんも切ないけれど、
ずっと母に抱かれずにいたのに、それでも自分が悪かったと
ごめんと謝る洋子さんがふびんでした。
私にも年老いた母がいたら、どんな今があったのでしょう、
老いた母がなく、生まれた時から母をひとりじめして愛されてきた私には
それゆえかもう一歩最後のところで感情移入ができなかったのが正直な読後感でした。

あとがきで、内田春菊さんがまさに書いておられます。

そんな佐野さんの言葉に皆が助けられ。励まされ、自分が生身だってことをしっかり思い出し、涙を流す。涙を沢山流すのは、とっても体と心にいい。本気で感情移入して流す涙ほどいいそうである。佐野さんはその作品で皆を治療している。

この共感こそが、
もしかしたら、友達が私には勧めないと言った訳だったのかもしれないとも思いました。

それでもやっぱり読んでよかった。
いっきに読み終えたこの作品は、
洋子さんの生身の声、正直な気持ちの記録として素晴らしいものだと思います。
洋子さんも昨年11月に他界されました。
お母さんと洋子さん、互いの生前に気持ちが通いあう時が訪れたこと
ほんとうによかったと思います。

百人の母娘がいれば、百通りのそのあり方があるはず。
娘として、また母として立ち止まった時に手にすれば
洋子さんの想いが心に重なり、癒され涙がこぼれるのだと思います。
by sarakosara | 2011-03-11 11:30 | 読んで思ったこと

遠きにありて思ふもの


by sarakosara